
シロモチグループ・ジャパン代表
【シロモチの履歴書③最大級の尊敬の念を込めて】
【シロモチの履歴書③最大級の尊敬の念を込めて】
シロモチの過去を思い起こす―。
いろいろな人に出会ってきた。
両親や友人、学校の先生、職場の同僚、上司、取引先の方、趣味などのプライベートでの仲間―。
すべての出会いに感謝しているが、
その中でも祖父への尊敬の念は深い。
同性ということもあり、最大級の尊敬の念があるひとだったのかもしれない。
当時、私が26歳の時、その祖父が亡くなった。
祖父は背が高くスラっとして、祖父が経営する食堂には、常連客が多く足を運んでくれた。
人望があるひとだった。
幼い頃、両親が共働きだったためか、保育園への送り迎えは基本的には、祖父が迎えにきてくれた。
幼い頃、祖父母と同居していた。
保育園までの距離は、家から徒歩で約30分。
毎日のように歩いて迎えに来てくれ、そして、祖父とともに歩いて家まで一緒に帰っていた。
日々、保育園で起きた、たわいもない私の出来事を、親身に毎日、毎日、聞いてくれた。
また、食堂の合間で作ってくれる料理が美味しかった。
祖父が作ってくれた、昔ながらのいわゆる「中華そば」の味が今でも忘れられない。
レシピを探したが見当たらず、いまでは当時の味を再現できないのがたいへん悔しい。
時がたち、私が社会人として就職した時、
私がビジネスの話や相談をして、対等に話をしてくれた。
祖父祖母は、個人事業主として、店舗を四半世紀以上にもわたり、経営を継続していた。
私が転職する時も意見を尊重してくれた。
「思い切ったことをするなあ」と笑っていた。
そしてその転職した、最大手会社に勤めた時も相談に乗ってくれた。
当時私は大変苦戦していた。慣れない環境下でかつ、周りのレベルが高かったからだ。
ただ転職して調子が悪くなったという姿は見せまいと私は、祖父に対して、気高にふるまった。
そんな様子を知ってか知らずか、祖父は
「情報をつかむことは大変だな」と言ってくれた。その言葉の通りだった―。
情報をつかんでくるということは、
地べたを這いつくばって
泥臭く、足を現地に運び、信頼性や関係性を構築しなければいけなかったからだ。
そんな日々の業務もさらに多忙を極め、なかなか祖父の家に、顔を出すことができなくなりつつあった。
そんな時、祖父は家で倒れたのだ。
倒れた時、足の骨を骨折した。
骨折のためか起き上がれず、冬の寒い居間で、救急車も自力で呼ぶことができない状況だったようだ。
そんな時、奇跡的に祖父の友人が家を訪ねてくれ、祖父は病院に運ばれ、延命できた。
ただ長くはなかった。
病院に運ばれた時はしっかりしていた。「早く良くならないと-」と治療にも前向きな様子だった。
ただ、それから急激に認知症が進み、病院のベッドの上で料理をしているように「鍋を振ったりするしぐさ」をしていた。
尊敬していた祖父のその姿を見て、ショックを受けた。
そんな祖父がこれから介護生活へ移行していくのかと思った矢先、祖父が亡くなったと連絡が入った。
私はショックで泣き崩れるかと思ったが、その知らせを聞いた当時は涙は出なかった。
泣いたのは、葬儀も全て終わったあと、ふとした時思い返してからだ。
ある程度、亡くなることを覚悟していたということもある。また、これまでに、充実した日々や思い出は築けたというそれなりの自信や覚悟があったからだ。当時、ほかの不幸が連鎖的に重なり、感覚が麻痺していたのもあるかもしれない。
長い間、祖母を介護施設で看病していた祖父。
祖父なりに、介護をさせたくないというような、思いがあっての去り方だったのかもしれないと、
今は思い返して思う。
今でもふとした時に思い返しさみしくなる。どうしても我慢できない時もある。
ただ、前を向いて歩いていきたいと思う―。
個人事業主として立派に経営を成し遂げた祖父、祖母を誇りに思っている。
私自身も、二人に負けないよう精進していきたい―。私のルーツはここにあるといっても過言ではない。
【SDGs「(持続可能な開発目標)」策定】
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